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大阪高等裁判所 昭和52年(う)284号 判決 1978年7月18日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一二年に処する。

原審における未決勾留日数中三〇〇日を右本刑に算入する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(控訴趣意及び答弁)

本件控訴の趣意は、大阪地方検察庁検察官検事村上流光作成の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人朝比奈善麿、同鎌倉利行、同宮武太、同森正博共同作成の答弁書に記載のとおりであるから、これらを引用する。

(本件の経過)

本件公訴事実は、「被告人は、第一 昭和四六年一〇月一六日ころ、知人の加治勝美(当時二六年)から、陶器一雄に貸し付けるべく現金六〇万円を預かったが、いっそ右加治を殺してしまえば右金銭は自己の自由になると考えて、右加治の殺害を決意し、同月一七日ころの午後八時ころ、右加治を言葉巧みに誘い出して被告人の運転する自動車の助手席に同乗させ、同日午後九時ころ、大阪市旭区新森一丁目七番六号先同市道高速大阪森小路線未供用道路上に至るや、同車を停車させて、やにわに右加治の頸部を背後から両腕で締めつけ、よって間もなく同所において、右加治を窒息死させ、もって同人を殺害し、第二 右犯行を隠ぺいするため、同日午後九時過ぎころ、右加治の死体を右自動車に乗せたまま、右同所から大阪府高槻市奈佐原三七五番地所在の雑木林に至り、同日午後一一時ころ、同所にスコップで穴を掘り、その中に右加治の死体を埋没し、もって死体を遺棄したものである。」というのである。

原判決は、「被告人は、捜査段階で右被訴事実に沿う犯行を自白していたが、当公判廷にいたり、加治勝美から現金六〇万円を預かったことを認めた(但し、預かった日は違うと供述)ほか犯行全部を否認し、無罪を主張した、」、「本件の外形的事実と被告人とを結びつける直接証拠としては被告人の捜査官に対する自白が存するだけである。従って、被告人に対し有罪を認定するには、被告人と事件との結びつきについて合理的な疑いを入れる余地がないほど自白に信用性、真実性が認められなければならない」と判示したうえ、「本件において、被告人の公判廷における供述には不自然、不合理な弁解と思われる点があるのに対し、被告人の自白は詳細、具体的で迫真力に富み、客観的事実と符合する部分も存する」、「本件が被告人により実行されたのではなかろうかと疑わしめる点があることは否定できない」としながらも、「他面、自白の内容をし細に調べてみるとき、その信用性に疑いをさしはさむ余地なしとしない」、「そして、取り調べたすべての物的証拠や情況証拠等を吟味しても、被告人の捜査官に対する自白の信用性、真実性を担保するにはなお十分でなく、前記の疑いを越えて自白の信用性を裏付ける決め手となるものは見出すことができなかった」とし、「本件公訴事実の証明は十分でないと帰結すべきものである」と判示して、被告人に対し無罪の言渡しをした。

検察官の論旨は、要するに、被告人の本件自白の信用性は極めて高く、これを裏付ける十分な物的証拠その他の客観的情況証拠があるから、被告人が本件犯行に及んだことは明らかであるにかかわらず、原判決が無罪を言渡したことは、証拠の取捨選択ないしは価値判断を誤り事実を誤認したものであり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであって、とうてい破棄を免れない、というのである。

(当裁判所の判断)

第一はじめに

昭和四七年八月五日、本件公訴事実第二にいう雑木林の中で、頭部が白骨化して地上に露出し、身体が土中に埋まり、頸にひも(当裁判所昭和五二年押第一三八号の一。以下、これを「証一号」と略称し、他の証拠物についても同様の略称を用いることとする。)が二重に巻きつけられている死体が発見された。捜査の結果、歯の治療状況やズボンの洗濯用ネームなどから、その身許が本件被害者の加治勝美(昭和二〇年九月二三日生)であることが判明し、また、死体及び周囲の状況から、同人が何者かによって殺害されて同所に埋められたものと容易に判断された。以上の点は、被告人もこれを争わず、また、原審で取調べた証拠、特に司法警察員作成の「他殺死体の発見について」及び「被害者の身許確認について捜査報告書」と題する各書面、司法警察員作成の昭和四七年八月一八日付検証調書及び同年九月一〇日付実況見分調書、加治和枝、加治豊、加治君枝、津田久三、徳山順一、麻生隆則、村田昌稔の司法警察員に対する各供述調書、嘉穂町長作成の住民票謄本、松本秀雄作成の鑑定書、警察庁技官酒井賢一郎作成の鑑定書(以下、証拠は、特に断わらない限り、原審において取調べたものを指す。)によって認めることができる。

さて、本件における争点は、右の罪体を前提としたうえ、被害者の加治を殺害して土中に埋めた犯人が被告人であると断定すべき証拠の存否いかんである。そして、この点の判断は、原判決が正当に判示するとおり、被告人の捜査段階での自白調書に信用を措くことができるかどうかに大きくかかっているのであるが、本件においては、そのほか、これとは独立した情況証拠と目すべきものも相当程度に存在しており、これを検討することは、右自白調書の信用性の有無を客観的かつ正確に判断するためにも極めて重要である。

そこで、以下、右自白調書の信用性の有無にかかわりなく、これとは独立して認定することのできる情況証拠(情況事実)をまず検討するとともに、その観点から自白調書の信用性を考察し、次いで、自白調書の信用性を高めると認められるその余の証拠の検討に移り、最後に、原判決において自白調書の信用性を損うと判断された証拠の検討を行い、これを総合することによって原判決の事実認定の当否につき結論を下すこととしたい。

第二自白から独立した情況証拠と自白の信用性

原判決は、本件についての物的証拠及び客観的情況証拠は、いずれも、被告人と犯行を結びつけるには不十分であるばかりか、被告人の自白を裏付ける証拠となるものでもない、と判断している。そこで、原判決が検討の対象とした事項の中から特に重要と思われるもの、すなわち、被害者と最後に居合わせたと思われる人物、被告人が被害者から預かった現金六〇万円及び死体の頸部のひもを最初に調査の対象として取り上げたうえ、原判決が検討の対象としていない事項の中で重要と考えられるもの、すなわち、死体遺棄現場についての被告人の土地感と被告人の自動車の売却をも調査の対象として取り上げ、右の原判断の当否を考察したい。

一  被害者と最後に居合わせたと思われる人物について

(1) 被告人は、義理の叔父陶器一雄が経営するすし店「利休」で調理師仲間として働いていたことから、被害者の加治と知り合い、同人の退職後三年間位は交際もなかったが、昭和四五年秋ころ偶然会って再び交際するようになり、ときどき大阪府守口市橋波西之町一丁目二二番地福和荘にある同人の住居や同市西郷通一丁目一六番地橋波市場内にある同人経営のすし店「うお勝」に出入りし、その間、加治から、すし店経営のかたわら金融業をしている右陶器一雄に金を預けて利息をかせぎたいので口をきいてくれるようにと頼まれていた。以上の事実は、被告人の自白調書と原審公判廷における供述その他の関係証拠が合致しているところであって、被告人も認めるところである。

(2) ところで、加治の経営する「うお勝」が昭和四六年一〇月一七日(以下、単に月日のみを掲げる場合は昭和四六年のそれを指す。)の日曜日から閉店状態になり、同日以降加治が近所の人に姿を見せなくなったことは、原判示のとおり、証人堤寛子の証言、同女の司法警察員に対する供述調書、児玉哲夫の司法巡査に対する供述調書によって明らかである。また、原判示のとおり、第三者が失踪前の加治を最後に目撃したのは前日の一六日のことであり、その後に同人を目撃した者はまったく見当らない。

(3) 加治の最後の目撃者と目される者は、前記の福和荘や橋波市場の近くにある喫茶店「味香」の経営者近藤浪子である。同女は、その証言(第一〇回公判調書中の供述部分)において、一〇月一六日の午後九時ころ、閉店のまぎわに加治が連れの男と来店し、カウンターに並んでコーヒーとサンドイッチを取りながら二、三十分話しており、加治が勘定を払って一緒に店を出たが、会話の中で連れの男が「今日はだめだったけれど、明日は何とかなるやろう」と言っていた旨を供述し、さらに、法廷内の、被告人を見て、その連れの男は被告人であると思うと供述している。

被告人も、原審公判廷で、加治と一緒に「味香」へ行ったことを自認しているので、右の加治らの挙動に関する近藤の供述内容は真実であると認めることができる。しかし、日については、被告人は一四日の夜のことで一六日の夜ではないと主張して争うので、さらに検討を進めるのに、近藤が日を一六日と特定するに至った根拠は、加治ら二人が閉店まぎわに来たこと、コーヒー二つ、サンドイッチ二つというその店としては極めて珍らしい組合わせの注文で特に印象が深かったこと、それが一〇日前後であったことなどの同女の記憶に基づき、その協力を得て捜査官が店の伝票つづりを一月分から一一月分まで一枚ずつ調べてみた結果、そのような組合わせの注文の記載があった伝票はNo.一二三四九の一枚(証五号)だけで、一〇月一六日の分の束に含まれていたことにあり、確実なものとみることができる。原判決は、この点につき、同女の捜査官に対する供述によると、同店の一〇月一六日分の伝票はNo.一二一八四からNo.一二四四三までの二六〇枚であることがうかがわれるのに、同女の証言によると、一日の客は五〇人から六〇人というのであって、矛盾しているので、伝票の押収過程をそのまま信用して日を一六日と特定することは許されない、旨を判示する。しかしながら、近藤浪子の前記証言及び当審公判廷における証言によると、伝票には五桁の一連番号が付されてはいるが、一〇〇枚つづりの冊子になっているため、一冊を使い終って次に移るときに必ずしも番号順の冊子を取り出すわけではなく、任意の冊子を使用しており、したがって、上三桁の番号と月日の順とは合わないことがある、というのであり、また、捜査段階で伝票の調査をした内藤矯一の当審における証言によると、一〇月一六日分の伝票は五八枚であったが、近藤浪子が右証言と同旨の説明をし、かつ、書き損じがあったようなので、不自然とは感じなかった、というのである。これによると、一〇月一六日の伝票がNo.一二一八四からNo.一二四四三となっていても、合計の枚数が二六〇枚となるわけではなく、No.一二一八四からNo.一二二〇〇までの一七枚と、No.一二四〇一からNo.一二四四三までの四三枚の六〇枚のうち、書き損じ二枚あり、結局合計五八枚であったと解するのが合理的である。また、そう解する方が、「味香」の一日の客が五〇名から六〇名であり、加治らは閉店時間に近いころに来たとの前記近藤浪子の証言とも一致するのである。さらに、捜査段階で同女の供述を録取した村上政美及び前記内藤矯一の当審における各証言によると、伝票の捜査は初め内藤矯一が担当し、近藤浪子から伝票の提示を受けて事情を聴取し、押収した伝票を特定していたのであるが、所要のために急拠村上政美が代って同女の供述調書を作成することになったため、連絡不十分もあって、村上政美が一〇月一六日分と翌一七日分三枚をたばねた伝票の枚数を単純に番号の差引きで算出できると錯覚し、しかも、二六三枚とすべきところを二六二枚と計算間違いした結果、前記原判示のような供述調書の記載となったことが認められるのであって、このことから伝票の押収過程に不明確な点が存したとみることはできない。

(4) このようにして、被害者と最後に居合わせた人物は被告人であり、しかも、その際この二人が被害者の失踪する翌一〇月一七日の予定を話し合っていたことが認められるのであるから、これと同旨の被告人の自白調書の信用性は大いに高められるのであり、かつ、独立した情況証拠として重要な意味を有するものというべきである。

二  被告人が被害者から預かった現金六〇万円について

(1) 被告人は、原審公判廷において、加治から六〇万円を預かった経緯について、その日の点を除き、捜査段階の自白調書において述べた事実を認めている。そこで、その自白調書の内容をみると、次のとおりである。すなわち、被告人は、前記のとおり、加治から、陶器一雄に金を預けて利息をかせぎたいので口をきいてくれるように頼まれていたのであるが、一〇月一五日、自分の乗用車(日産サニー・クーペ)を運転して福和荘の加治を訪ね、同人に直接陶器一雄に会って頼むよう勧めて午後八時ころ車に同乗させ、大阪市阿倍野区昭和町にある陶器経営のすし店「利久」や大阪府堺市にある同人の自宅まで行ったけれども、結局同人には会えず、その日は、加治を福和荘まで送り、大阪市阿倍野区阪南町一丁目四八番地二三号平和荘内の自宅に帰った。翌一六日午後五時ころ、加治から自宅にいる被告人に電話があり、陶器一雄に預ける予定の金が用意できたから来てほしいというので、午後八時ころ車で福和荘へ行き、加治を連れて「利久」などを訪ねたが、また会えなかったので、加治を送って福和荘の近くまで来たとき、同人が車内で「これ預かっといてくれ。一雄さんに渡して、あとはよろしく頼む。六〇万円ある」といって封筒に入れた現金を渡したので、これを受け取った。その後、加治とともに近くの喫茶店に入り、二人でコーヒーとサンドイッチを食べた。午後一〇時ころ加治と別れて帰る途中、義父陶器新太郎、実母陶器千代が経営する大阪府堺市甲斐町東一丁三六番地の飲食店「割烹若松」に立ち寄ったところ、千代から、翌日警察官採用試験を受ける予定である被告人の弟陶器隆太郎が受験票を忘れていったので、翌朝会場の警察学校まで届けるように頼まれ、受験票を預かって帰宅した、というものである。

被告人は、原審公判廷において、加治から六〇万円預かったのは、自白調書にあるような一〇月一六日の夜のことではなく、一〇月一四日の夜のことであり、「味香」へ行ったのもその夜であったと述べ、日の点を争っている。しかしながら、加治と被告人が喫茶店「味香」へ行ったのは、前述のとおり、一〇月一六日の夜とみるのが相当であるから、加治から六〇万円を預ったのもその日のことというべきであって、結局、日に関する点でも被告人の自供調書の方が真実であると認められる。このことはまた、加治の経営する「うお勝」の隣りで魚屋を営む南妙子が、原審公判廷での証言において、加治は一〇月一六日午後六時半ころ自分の店で現金を手にもってびらびらさせていた、持っていた現金は一〇〇万円位あったように思う、その日は店を閉めた一〇月一七日の前日のことであった、旨を供述していることとも一致する。

(2) 原判決が判示するとおり、横関広美の司法警察員に対する供述調書によると、加治は、一〇月一四日午後、守口西郷郵便局で、自分の郵便貯金のほとんど全額である六二万円の払いもどしを受けており、被告人に預けた六〇万円はこの払いもどし金であったと推認される。一方、同判示のとおり、司法警察員作成の「被疑者吉井謙一郎が作成した預金申込書の入手について」、「吉井謙一郎の預金状況捜査結果報告書」、「預金申込書等証拠品の写真撮影について」と題する各書面、鑑識課長作成の現場指紋等確認通知書、陶器新太郎の司法警察員に対する供述調書、被告人の原審公判廷での供述によると、被告人は、加治から預った六〇万円のうち四〇万円を、一〇月一八日に「吉井謙一」名義で福井銀行阿倍野支店に新たに普通預金口座を設けて預金し、一〇月二六日にそのうちの三〇万円を引き出し、手持ちの金を加えて義父の陶器新太郎に貸し付けており、残りの一〇万円も、一一月一日に八万円、同月二六日に二万円を引き出している。しかも、陶器一雄の証言と検察官に対する供述調書によると、被告人は、加治から六〇万円を預かった後何度も陶器一雄に会っていながら、右六〇万円を同人に預けておらず、加治から金を預っていることを話してもいないのである。

(3) 原判決は、この点に触れ、被告人が右六〇万円をあたかも自己の所持金であるかのように取扱っているのははなはだ不審なことであるとし、被告人の公判廷での弁解が不合理であることを種々指摘しながら、結論としては、加治が問い合わせて来ないのを幸いに領得する意思であったと考える余地もあり、この一事をもって被告人が本件犯行に及んだと推論することは許されない、と判示している。しかしながら、この一事をもって被告人を犯人であると断定することが許されないにしても、それが有力な独立した情況証拠であることは否定すべくもないし、いわんや、これと同旨の被告人の自白調書の信用性を裏付ける重要な証拠であることは当然である。すなわち、被告人が右自白調書において供述している内容、つまり、加治さんが一雄に預けたいといっている金を自分で使いたいと思ったこと、加治さんを殺す前日電話で「もう金を用意したから来てくれんか」といって来たので、加治方へ行き「もう話はできているから」と嘘をいったこと、加治さんを騙して六〇万円を受け取った後、ばれたら困るし、加治さんを殺せば返済を迫られることもなく自由にその金を使えると思い、そのためにも加治さんを殺してやろうと思ったことなどと一致しているのである。

三  死体の頸部のひもについて

(1) 死体の頸部に巻きつけてあった前記のひも(証一号)は、一本のニットのひもの両端に別の布製のひもの両端を結びつけて大きな輪としたうえ、二個の結び目を重ねた状態で輪を両端にひいて二つ折りにし、布製のひもの方の先端から約一〇センチメートルの部分で二つ折りのまま一重の結節が作られているものであって、これを拡げると、ニットの部分を主にした大きな輪が一つと、布製の部分の先端で小さい輪が一つ形成される形状を呈している。また、布製部分の小さい輪には、すり切れてできたような数個の破損が存在しており、相当期間にわたってそれが何かと接触していたことをうかがわせている。

また、右ひものニットの部分が、喫茶店「御門」で用いられていたウェイトレス用制服のベルト(証一〇号はそのうちの一本である。)と同一種類のものであり、被告人方食堂のいす用座布団(証二号)の四隅に縫いつけてあるニットのひもとも同一種類のものであることは、それらのひもの生地、色調、紋様、形態に照らして明らかであるばかりでなく、福田公郎の証言及び昭和四八年一月二四日付鑑定結果回答書によっても明らかである。

(2) ところで、真鍋幸子の司法警察員に対する供述調書、吉井行子及び鍋山賢治の各証言、栗田友治の証言及び司法警察員に対する供述調書によると、「御門」の右ベルトは昭和四二年の春に同店がウェイトレス用の制服として購入した一三着のワンピースに付属していたものであること、「御門」ではこの制服の使用を一、二シーズン用いただけで中止し、ウェイトレスに「欲しい人にはあげますから家に持って帰りなさい」といって地下の更衣室に置いていたこと、被告人の妻吉井行子は昭和四二年四月から一二月まで「御門」のウェイトレスとして勤務し、同店から右ベルトをもらってこれを四等分し前記の座布団(証二号)の四隅に縫いつけたことが認められる。さらに、吉井行子及び鍋山賢治の各証言、司法警察員作成の昭和四七年一二月一三日付見取図によると、前記の被告人方においては、台所の窓ガラス戸のしきいと六畳間、三畳間の間の鴨居に吊した輪の形をしたひもとで物干竿を支え、洗濯物を掛けてから窓の外の物干しに出すのに使ったり、雨の時に室内で干物をするのに使ったりしていたこと、そして、すくなくとも一時は「御門」からもらったニットのひもを物干竿を吊すひもとして用いていたことが認められるのである。

(3) もっとも、この点につき、吉井行子は、「御門」から持ち帰ったのはワンピース一着とベルト一本だけであり、このベルトを一時は物干竿を吊すのに用いていたけれども、汚なくなったので別のひもに替え、ベルトは四等分して座布団(証二号)の四隅に縫いつけた旨を証言し、原判決も、吉井行子が二本以上のベルトを持ち帰るのは容易であったけれども、実際に二本以上持ち帰ったと推論することはできない旨を判示している。しかしながら、この証言及び判示は、他の関連証拠と矛盾し、ともに不合理なものといわなければならない。

すなわち、まず、座布団(証二号)の四隅に縫いつけられている四本のひもは、いずれも格別汚れてはおらず、また、破損、伸びなどもなく、「御門」に保存されていたひも(証一〇号)とほとんど差異は認められない。したがって、このひもを物干竿を吊すのに使用していたが汚れたため取り替えて座布団に縫いつけたという吉井行子の供述は、この点ですでに著しく信用性を失うものというほかはない。

のみならず、死体の頸に巻かれていたひも(証一号)は、前述のとおり、「御門」に保存されていたひも(証一〇号)と同一種類のものであって、元来は約一三〇センチメートルの長さであったと認められるが、両端における布製のひもとの結び目で数センチメートルが費されているから、これを二つ折りにしたときの長さは約六〇センチメートルである。これに二つ折りにした布製部分の約二二センチメートルの長さを加えると、ひもの長さは合計約八二センチメートルということになる。一方、前記吉井行子の証言並びに当審で取調べた司法警察員の昭和五二年六月八日付実況見分調書及び同月二一日付報告書によれば、物干竿の一つの端を吊すのにひもを掛けていたと認められる鴨居の高さと、他の端を掛けたという台所の窓のしきいの高さとの差は、約八〇センチメートルであって、死体のひも(証一号)の長さともほぼ一致する。

加えて、死体のひも(証一号)は、その形状がはなはだ特殊であって、上述のような物干竿吊しにでも用いたと考えて初めて納得のいくようなひもであることに留意しなければならないのである。

(4) 以上の考察を総合するときは、死体のひも(証一号)が被告人方で物干竿吊りに用いられていたひもであるとの疑いを強く生じさせるものというべきである。原判決は、栗田友治の証言及び司法警察員に対する供述調書により、「御門」の制服のワンピースと同種、同型、同色のものが約四〇〇着販売された事実を認定したうえ、死体のひもを被告人以外の第三者が入手して犯行に及んだ可能性も否定できないと判示している。しかしながら、第三者の犯人がこれを入手したという可能性は、それ自体、被告人方に二本のベルトがあったという可能性に比してはるかに低いうえ、その第三者が死体のひものような形状、長さのものに作りかえて犯行に用いたという可能性は、死体のひもが被告人方で用いられていた物干竿吊りのひもであるという可能性に比して無視しうる程度に低いものというべきである。

(5) ここで被告人の自白調書の内容をみると、「加治さんをしめ殺し、金を自分の物にしよう、と決心して起きたのです。起きた時、家の、六畳と三畳の間の鴨居にかけてある紐が目に入りました。この紐はかなり以前から、三畳の間の窓わくとの間に物干竿をかけ、洗濯物をかけてから、窓の外の物干に出すのに使ったり、雨の時部屋の中で干物をしたりする時に使うため、妻が取りつけたもので、鴨居に釘を打って輪にしてかけていたもので、いつも目についていました。」というのであって、前記の情況証拠はこの記載の信用性を裏付けるに十分なものと断じてさしつかえない。なお、原判決は、被告人が逮捕直後作成したひもの図が一つの輪になっており、死体のひものように二つの輪になっていないことを把え、後者が被告人方にあったものと認定するうえで障害になると判示しているが、物干竿用のひもは被告人が日常これを使用していたのであればともかくただこれを見ていたというだけで特別に注意するような性質のものではなく、しかも、布製部分の結節は先端からわずか一〇センチメートルのところにあって、ごく小さい輪を形作っているにすぎないものであるから、被告人がこれを一つの輪となるひもと記憶違いしていたとしても特に異とするにあたらない。むしろ、被告人が、犯行に用いたひもは編んで輪になったものであるとして、顕著な特徴を誤りなく述べていることは、その供述の信用性を裏づけるものともいいうるのである。

四  死体遺棄現場についての被告人の土地感について

(1) 本件死体遺棄の現場は、人跡稀で、犯人に相当な土地感がなければ想起することのできない場所であるところ、浜本益栄の証言、司法警察員作成の昭和四七年九月一〇日付実況見分調書によると、被告人は、昭和三八年二月からしばらくの間、その現場から東南約二・五キロメートルの大阪府高槻市緑ヶ丘にある高槻かま風呂温泉に調理人として勤務しており、同温泉近くの山林を徘徊したことがあり、十分な土地感を有していたことが認められる。原判決はこの点にはふれていないが、ひとつの情況証拠であることは確かであるといわなければならない。

(2) 被告人も、その自白調書において、「ここに居る間、近くの摂津耶馬溪に遊びに行ったり、かまぶろ温泉の経営者の息子が空気銃を持っていて、その空気銃を借りて近くの山に入ったり、かすみ網で小鳥を取ったりしていましたので、かまぶろ温泉から奥は、人もあまり行かない山奥になる事を良く知っていました。この事から、加治さんを殺した時、死体をかくす場所として、高槻の山を思いついたのです。」と述べているのである。

五  被告人の自動車の売却について

司法警察員作成の昭和四七年一一月二七日付及び同年一二月二日付各捜査報告書、水島謙次の司法警察員に対する供述調書によれば、被告人は、使用中で、八月四日に車検を受け、車体全体の塗替えまでしていた乗用自動車サニー・クーペを、本事件後まもなくの一二月一一日に下取りに出し、ニッサンブルーバードと買い換えている。原判決はこの点についてもふれていないが、このように引き続き使用する意図があったと推認される状況があるのに、本事件後間もなくこれを売却している事実は、殺人を犯した犯人の心理を前提にすればよりよく理解がつくところである。

第三自白の信用性を高める証拠

原判決は、被告人の自白で死体遺棄の犯行の際に用いたとされている赤色燈については、自白の信用性を裏付けるに足りるものではないと判示し、右犯行の際に用いたとされるスコップの入手経緯の証拠については、その重要性を肯定しつつも、自白の信用性を担保する決め手にはならないとし、自白自体のもつ迫真性については、これを肯認しながらも、供述中に変遷がみられる点を指摘し、それが自白の信用性に疑いをさしはさむ一因となっていると判示し、さらに、自白に至った経過については、身に覚えのないことを自白したとするには余りにも不可解と思われる態度を示しているとしつつも、身柄を拘束された自白者の心理がいかに通常人からは想像し難いものであることは古今東西の少なからぬ実例が教えているところであり、この態度を過大に評価してはならないと判示している。そこで、以上の四点について調査を進め、これらが自白内容の信用性を高めるものか否かを考察してみたい。

一  赤色燈について

(1) 原判決は、被告人の自白調書の内容の要旨として、「加治の死体を埋めるため現場にもどった時、自分の車に備えつけてあった懐中電灯(赤色燈)で照らして死体を埋める場所を捜し、穴を掘る際はそれをいったん地面に置いたことがある旨供述している。」と述べたうえ、次のように判示している。すなわち、「被告人の知人である小渕良一は、昭和四七年春ころ(もっとも、同人の員面調書では、被告人が昭和四六年暮れころ日産サニークーペからブルーバードに乗り替える前と供述している。)被告人から懐中電灯(赤色燈)一個をもらい、後にそれが領置され、証拠物(昭和四八年押四一六号の四)として提出されているところ、被告人は、捜査段階で右の証四号が犯行時に用いたものである旨供述している。証四号には乾燥した土が付着しており、大阪府警察科学捜査研究所長作成の昭和四八年一月一〇日付の「鑑定結果の回答について」と題する書面(担当者清水達造)、第五回公判調書中の証人清水達造、同青木洋三の各供述部分によれば、証四号に付着した土と死体発見現場付近で採取した土とは粒度、粒形の対比、化学的検査の結果相互に類似するというのである。もっとも、被告人が昭和四六年一〇月当時に証四号を自分の運転する日産サニー・クーペに備え付けていたのか、被告人から証四号をもらった小渕がその後それに土を付けるような使い方をしたことがないのか、という点については争いがあるが、前記の検査を担当した清水達造の証言によれば、同人は土の異同について、酷似、類似、類似しないの三個の分類を用いており、本件ではそのうちの類似するという結論に達したというもので、現在の土壌鑑定技術の水準では、全く別個の場所から採取した土壌相互間においても類似という検査結果が出ることもあり得るというのであるから、いずれにせよ、証四号に死体発見現場付近の土が付着したものと断定することはできず、右赤色燈は被告人の右自白を裏付ける証拠となるものではない」というのである。

(2) 原判決は、右のとおり、被告人が当時赤色燈(証四号)を自分の車に備えつけていたかどうかについては争いがあると判示しており、事実、被告人は、右の車には赤色燈を備え付けるためのクリップはなかったと供述している。しかしながら、司法警察員の昭和四七年一二月七日付実況見分調書の写真第五号及び同月二四日付捜査報告書の写真第四号、当審において取調べた司法警察員の昭和五二年五月二〇日付、同月二二日付、同月二七日付、六月一日付の各報告書に徴すると、本件車両には販売当初から赤色燈がクリップとともに備え付けられていたことが明白である。また、原判決は、被告人から本件赤色燈をもらった小渕良一がその後それに土を付けるような使い方をしたかどうか争いがあると判示している。なるほど、同人は、魚釣りに行った際に車の下まわりを見るのに使い、地べたに置いたこともある旨供述しているが、右赤色燈の土壌は、現在でも、そのみぞなどに相当量が密着しているのであって、単にこれを地上に置いただけで付着したものとは思われないばかりでなく、昭和四七年一二月一四日に同人からこれを領置した小笠原崇公は、付着している泥に関して小渕良一が、その際、「私、これ貰ってから一度も使っていません。車の中に放りこんだままで、電池もそのまま替えたこともない、泥のつくような使い方をしたこともない」と説明した旨を証言していること、及び小渕良一の同日付の司法警察員に対する供述調書中に、「被告人からもらった赤色燈は、今でも車の後部座席うしろにダンボールの箱に入れております。この電池はもらった時のままです。」との記載があることに照らして、措信することができない。

(3) このように、被告人の自白調書の内容に合致する赤色燈(証四号)に、容易にはく離しないような状態で死体遺棄現場の土と類似する土が付着していることは、右自白の信用性を担保する証拠であるというべく、これを否定する原判示は合理性を欠くものというほかはない。

二  スコップの入手経緯について

(1) 原判決は、死体遺棄に使用したとされるスコップの入手経緯についての自供が自白全体の信用性に重大なかかわりをもつとの認識に立ち、次のように判示している。すなわち、「被告人の自白によれば、加治の死体を埋めるために使ったスコップは、死体遺棄現場から引き返す途中で拾ったものであるという。そして、右の自白のように、昭和四六年一〇月一七日当時には、被告人が拾ったという府道萩谷・西五百住線と市道郡家・茨木線の交差点付近で道路工事が行われ、ローラーやスコップが使われていたものと認められる(第六回公判調書中の証人坂口政清、同松本正彬の各供述部分、松本に示された現場見取図、道路工事内訳表、松本作成の現場見取図、第一一回、第一三回公判調書中の証人吉田源次郎の各供述部分、同人作成の図面、林田国夫の員面調書参照)」としたうえ、「ここで重要と思われるのは、何故被告人がこのような自白をしたのかという点である。死体埋没にはスコップなどの道具が必要であるから、取調官は当然にそれについて追及するであろうが、入手方法としては犯行前にあらかじめ準備しておいたと供述するのが簡明かつ自然で取調官も納得すると思われるのに、被告人が取調官も意外とするような入手経緯を自白していることについては、取調官側からの誘導やこれに対する被告人の迎合に基づいたものとは考えられないからである。この点について、被告人は公判廷で、加治の死体発見の新聞記事を見て、昭和四七年一一月中旬ころ現場に興味本位で行ったことがあるが、そのときこの交差点付近の道路が新しかったのを覚えていたことから、一年前の犯行当時、この付近は道路工事中であったであろうし、それ故ローラーやスコップもあったであろうと想像して、このように自白したと弁解している。なるほど、死体遺棄現場付近のその他の状況について、被告人が詳細でほぼ正確な自白をしているのは、前記弁解のように現場に出向いたときの記憶と、それに基づく推理によって供述したということで一応説明することはできよう。しかし、このスコップ入手の点に関する限り、果して被告人のいうような推理が偶然的中して、丁度そのころ被告人のいう場所で道路工事が行なわれ、ローラーやスコップがあった、ということになるものかどうか、疑問を持たざるを得ない(なお、工事現場で被告人の自供した先のとがったいわゆる剣スコップも用いられていたことは、昭和四八年押第四一六号の七、八の各工事写真つづりから明らかである。)」と判示しながらも、「しかし、他方、被告人の自白には事実と食い違う点もある」として食い違い点を指摘した後、「このようにみてくると、被告人の前記の弁解に疑問は残るものの、この点をもって自白の信用性ありとする決め手(真犯人にしか分からない事実の暴露)になると断定することはできない」と結論する。

(2) 原判決が自供と事実との間にくい違いがあるとしているのは二点ある。その第一点は、実際に工事中であったのは南北に走る府道萩谷・西五百住線であったのに、被告人が当初自供していた工事中の道路は東西に走る市道郡家・茨木線であるということであるが、こうした細部の点についてまでくい違いの全くない供述こそむしろ疑わしいというべきであるからかかるくい違いをもって自白全体の信用性を損う重要な欠点とみるのは相当でないのみならず、後の自白調書においては真実に合致した供述に変更しているのである。第二点は、被告人の自供によると左側部分しか通れない工事現場が一〇〇ないし二〇〇メートル位あったというのに、林田国夫の司法警察員に対する供述調書によるとそのような事実はなかったということであるが、同人は二つの組で担当した工事のうちの一つの組についての状況を述べているにとどまるのであるから、必ずしも自供が事実と食い違っていると断定することはできない。これを要するに、一年二か月を経過した後の供述において、被告人の指摘した場所がその供述どおりに工事中であったということは、特異な体験の供述として、その信用性を十分に担保とするものといってさしつかえないのである。

三  自白の迫真性について

(1) 原判決は、「被告人の自白全体について」と題する部分の前段において、自白の迫真性について次のとおり判示している。すなわち、「被告人の自白は概要において一貫し、その内容は極めて詳細かつ具体的である。とりわけ、被害者の殺害方法につき、予め用意していたひもで被害者の首を締めたと自供するのが取調官を納得させるうえに自然であるのに、被告人は、ひもはダッシュボードに入れて取り出せなかったので、右腕を被害者の首に巻き付けて殺害し、死体を捨てる前に生き返らないようにとどめを刺すためにひもで締めた、と殺害方法としては敢てより困難な方法を自供し、殺害状況の供述も詳細をきわめているうえ、殺害場所につき、森小路料金所から阪神高速道路にはいった未供用部分であると供述し、その裏付けもなされている。また、死体遺棄の経過につき、……被告人としては、当初から死体を埋めるつもりでスコップを用意したうえ山中に向かい、遺棄現場においても、いきなり穴を掘って死体を埋めたと自白すれば、容易に取調官を納得させることができたと思われるのに、いったん被害者の死体を山中に放置し、引き返す途中スコップを見付けて再び現場にもどり穴を掘って死体を埋めたなどとまわりくどい経過を自白しているのである。これらの点は、被告人が弁解するように、新聞記事で得た知識や昭和四七年一一月中旬に好奇心から死体遺棄現場を訪れたとき知り得た事実に基づいて想像し創作して供述したとするには、余りにも迫真性に富み、被告人が自ら体験した事実をそのまま自白したからにほかならないとする検察官の主張は必ずしも首肯し難いとは思われない」というのである。

(2) 以上の原判決の判示は、合理的であって、これを支持することができる。前記のとおり、原判決は、右の判示に続いて供述に変遷があることを指摘し、結局は、この点も自白の信用性を保証しうるものではないと判断しているのであるが、供述の変遷については後にあらためて取り上げることとする。

四  自白に至る経過について

(1) 原判決が「被告人は何故自白するに至ったのか」と題した部分の前段において次のとおり判示している。すなわち、「第一九、第二〇回公判調書中の証人内藤矯一、第二〇、第二一回公判調書中の証人岡田鎮也、第二一回公判調書中の証人萩原浩の各供述部分によれば、被告人は、昭和四七年一二月一二日午前八時ころ、高槻警察署に任意同行を求められて出頭し、まずポリグラフ検査を受けた後、午前九時ころから取調を受け始めたが、昭和四六年一〇月一八日付で福井銀行阿倍野支店に預金した四〇万円の出所を追究され、当初は種種弁解していたものの、同日午後九時過ぎになって、本件犯行を全面的に自白するにいたり、同日午後九時五五分ころに、『前々から知り合いの加治さんから金を六〇万円預かっていたが、その金を自分のものにしたくなり昨年一〇月一六日ころの夜、車に乗せて堺に向けて走っているうち、阪神高速で止った時、すきをみて腕で首を締め名神高速道路茨木インターチェンジから少し行った山の中に埋めたことに間違いない』旨の弁解録取書が作成された。そして、翌一三日付から同月二四日付まで計一二通の員面調書が、同月二〇日付から同月二八日付まで計四通の検面調書が作成されているが、いずれも本件犯行を自白している。被告人は、公判廷で捜査官に対し自白をするに至った理由について、(1)被害者から六〇万円を預かって返していないので弁解してもだめだと思ったこと、取調官から、(2)被告人の親、兄弟などの家族は最初から被告人を犯人だと思っており、おまえのことは愛想をつかしていると言われたり、(3)自動車のタイヤ盗の事件をほじくり返すと脅かされたり、あるいは、(4)この事件なら一〇年くらいの刑になる、まじめにやれば三分の一で仮出獄になる、途中で恩赦にでもなればもっと刑期は短くなることもある、などと言われたので、このうえはできるだけ取調官の心証をよくして刑を軽くしてもらった方が得策と思った旨述べている。しかし、被告人としては、(1)について、加治から六〇万円を預かって返していないが、自分は殺害していないと言えばよいことであるし、(2)、(3)及び(4)について、証人として取調べた警察官はいずれもこのような発言はしていないと否定し、仮にそれらしい発言があったとしても、自分で身に覚えがなければ、既に三〇歳にも達し家族もあり一応の分別を備えていると思われる被告人としてはあくまで否認し続ければよいのであって、殺人、死体遺棄という重罪につきいとも簡単に自白することは余りにも不自然である。しかも、いったん自白した後は、捜査官に対して極めて従順となり、自分が罪になるようになるようにと意図したとしか思えないほど積極的に協力している節が見受けられ、その態度は、起訴後相当期間続いている。すなわち、警察での取調が終了した一二月二五日には、被告人は取調官から、妻との面会を許されながらこれを断わって、妻あてに『大変な事をしてしまい本当に申訳けない』などとしたためた手紙を書いたのをはじめ、同日大阪拘置所に移監されて同月三〇日付で起訴され、引き続き同拘置所内で勾留されていたが、妻あてに数通の手紙を書いて捜査官に対する自供を繰り返し、面会に訪れた家族、親族にも同様の態度をとり、弁護人に対しても、犯行の動機は別として殺害行為は真実である旨の手紙を書くなどし、犯行を認める態度を変えなかった。ところが、昭和四八年四月二日に至り、妻あてに『私が間違っていました。話したいことがあります。至急弁護士さんに知らせてください』との手紙を書き、同月六日弁護人と面会し、同月九日の第二回公判の事実認否において、被害者から現金六〇万円を預かったことを除いては一転して犯行を否認するに至った(司法警察員作成の「被疑者吉井謙一郎の手紙発信受託についての復命書」、大阪拘置所長作成の昭和四八年四月一二日付「捜査関係事項の回答について」及び昭和五一年九月一八日付「捜査関係事項について(回答)」と題する各書面参照)。なお被告人は、昭和四七年一二月一三日の勾留質問の際には、本件各犯行につき『事実いずれも間違いありません。金が欲しかったので殺しました』と陳述している(同日付勾留尋問調書参照)。このような被告人の一連の態度をみるとき、被告人が身に覚えのないことを自白したとするには余りにも不可解に思われるのである。」というのである。

(2) 以上の原判決の判断もまた、合理的なものであって、これを支持することができる。

第四自白の信用性を損うとされた証拠

原判決は、自白の信用性を損う証拠として、一〇月一六日の被告人の行動、一〇月一七日の被害者の行動、犯行時の天候、自白内容の変遷の四点についての証拠を挙げている。そこで、以下、これらについての原判断が正当か否かをその判断に則しつつ検討してみたい。

一  一〇月一六日の被告人の行動について

(1) 原判決は、一〇月一六日の被告人の行動について次のとおり判示し、被告人の自白の信用性に疑いがあるとしている。すなわち、「被告人は、捜査段階で、一〇月一六日夜加治と同道して陶器一雄に会うため阿倍野や堺へ行ってから、午後九時過ぎに加治方アパートの近くに帰ったとき、同人から六〇万円を預かり、その後同人に誘われ近くの喫茶店(「味香」)にはいってサンドイッチとコーヒーをよばれ、午後一〇時ごろ同人と別れて『若松』に寄って帰宅したと供述しているのであるが、第一四回公判調書中の証人原田三佐子の供述部分によれば、同女は、同日午後六時から九時ごろまで大阪市内の上本町六丁目にある中小企業文化会館で開かれた大阪不動産学院の宅地建物取引主任者資格試験受験者のための講習会(当日は模擬試験)の会場で、開講前に顔なじみの被告人と会って二、三言葉を交わした後、被告人は後ろの方に着席したという。しかしながら、被告人の自白中には同日講習会に出席したという事実は全く出て来ないし、むしろ、一〇月一〇日後は同講習会に出席していないと供述している(一二月一七日付員面調書)のであるから、この点の食い違いは、結局被告人の自白の信用性にも影響するといえよう。検察官は、原田が被告人の義父陶器新太郎から頼まれて弁護側証人として出廷したという経緯から、その証言には信用性がないと主張するが、このような理由で同女の信用性を疑うことは相当でない。むしろ、同女は被告人及びその親族とは格別の利害関係はないのであるから、親族らの証言よりも信用性は高いともみられる。」というのである。

(2) しかしながら、右原田三佐子の証言内容は、当日の模擬試験は午後六時から九時までの予定であり、自分が前の方に坐っていると、開講前に被告人が後ろから入って来て、「こんな前に坐るのか。僕はもっと後ろの方に坐る」といって後ろの席に坐ったようで、試験が終るときには姿を見なかった、試験中に帰ることもできる、というものであるから、これが真実であるとしても、被告人の自白調書に記載されているように被告人が被害者方を訪れたことと矛盾するものではないし、前記近藤浪子の証言にあるように被告人が午後九時か九時すぎころ被害者とともに喫茶店「味香」に立ち寄ることもできたのであるから、直ちに自白調書の信用性を疑うわけにはいかない。さらに、右の出来事は本事件とは直接の関連がないのであるから、かりにこの点について被告人が誤った供述をしていたとしても、そのことから自白調書の信用性が疑われるとみるのは相当でない。

二  一〇月一七日の被害者の行動について

(1) 原判決は、一〇月一七日の被害者の行動について次のように判示し、被告人の自白の信用性に疑問を投げかけている。すなわち、「被告人の自白では、一〇月一七日午後八時前ころ加治のアパートへ行き陶器一雄の所へ一緒に行こうと誘った時、加治は、『今日はかぜをひいて店を休んだが、待ってくれ、行くわ』と答えて布団から起き上がってズボンを履き、被告人と一緒に出掛けた、ということになっている。ところが、加治が失そうしたため橋波市場内の加治の店を引き継いで営業することになった阿部光秋が、昭和四七年二月初めころ出入口の錠を壊して「うお勝」の店内へはいってみると、炊飯器の中にはといだ三升くらいの米がはいって腐っており、またすしの材料に使う高野豆腐の煮たものが冷蔵庫の中にもしまわずポリ容器に入れたまま放置されてかびが生え、悪臭を放っていたという(阿部光秋の員面調書参照)。この事実は、加治が前夜のうちに翌日の営業の準備をしておきながら、もはや再び店には現われなかったことを意味しよう(すし材料の取り扱い方につき第一〇回公判調書中の証人津島俊二、第一五回公判調書中の証人陶器一雄の各供述部分参照)。前述したように、加治は昭和四六年一〇月一六日まで営業し、以後閉店状態となっているうえ、一七日に加治を目撃した者がいないのであるから、材料の準備をしたのは一六日夜ということになる。そうすると、被告人の前記自白に従えば、加治は一七日の昼間は予め準備したとおり営業する予定であったところが、急に営業できないほどのひどいかぜにかかり、店を休んで寝ていたはずであるのに、被告人から誘われるとすぐ起きて気軽に外出したということになり、かぜで店を休み寝ていた者の行動としては奇異な感じを受ける」というのである。

(2) しかしながら、被害者と交際のあった石川秀子の司法警察員に対する供述調書、大野照子の証言によると、一〇月一七日より二、三日後に同女らが加治の部屋に入ってみると、電燈がついたままで、布団も敷いてあり、ポットの差込線も入れたままであったというのであり、被害者が夜間寝ていたところに急拠外出することになったことをうかがわせ、むしろ、被告人の自白と一致しているのである。朝方に気分が悪くて休んだとしても、夕方には外出できる程度に回復することはままあることであるし、ことに、野上泰、和田輝の司法警察員に対する各供述調書によると、当時被害者は寿司屋の営業に熱意を失い、転業を希望していたことが認められるのであるから、被告人の誘いに応じて金利かせぎの用件に赴いたとしても、すこしも不自然ではない。このようにして、この点の証拠は、被告人の自白の信用性を損うものではなく、むしろこれを増強するものということができるのである。

三  犯行時の天候について

(1) 原判決は、犯行時の天候について次のとおり判示し、被告人の自白の信用性に疑問があるとしている。すなわち、「犯行時とされる昭和四六年一〇月一七日の夜、大阪地方に降雨があったことは疑いない(検察事務官作成の報告書、弁護人請求の弁証第一〇号の一ないし三参照)が、直接犯行現場での測定はなされていないので、最寄りの地点での観測結果から推定するほかはない。死体遺棄現場の南西箕面市粟生字間谷にある大阪管区気象台箕面観測所の観測結果によれば、同日一七時二〇分から一七時四〇分まで三・五ミリ、同時刻から一九時五〇分まで〇・五ミリ、同時刻から二二時三〇分まで〇・五ミリ、同時刻から翌一八日一時二〇分まで〇・五ミリの降雨量が観測され、同じく右現場の北東高槻市大字原にある大阪府土木部河川課原観測所の観測結果によれば、同一七日一六時四〇分から翌一八日一時四〇分まで計九・五ミリの雨量が観測されている(前出報告書、弁証参照)ことからして、死体遺棄現場付近においても当夜いずれかの時間帯において、降雨があったことは否定できない。ところが、被告人の自白には、殺害現場で駐車する口実を作ったときの状況につき、『この日、一時小雨がふって後の窓がよごれたままになってそれを気にしながら走っていました』(一二月一八日付員面調書)という供述があるだけで、その他は全く降雨のことには触れておらず、それどころか、『死体を捨てユーターンして走り出してすぐ、砂ぼこりをあげて下から登ってくる灰色三菱コルトのような角ばった小型の普通乗用車とすれ違いました』(一二月一九日付員面調書)という供述があるのは、降雨のあった道路状態とは明らかに矛盾する。更に、死体の埋没後現場から引き返し「若松」に寄ったときの状況について、『自分の靴が加治さんを埋めた時ついた土でよごれているのに気付き(中略)おしぼりで、靴をきれいにふきました。』(一二月二〇日付員面調書)というのであるが、遺棄現場やそこへ至る細道(被告人は途中で転んで尻もちをついたこともあると供述している。)の地形・地質からみて、降雨のため地面がぬれていたと思われるのに、右自供のごとく靴だけにふけば取れる程度の汚れが付いていたのに過ぎないものか、疑問なしとしない」というのである。

(2) そこで、まず当夜の降雨量について検討するのに、当審で取調べた司法警察員の昭和五二年二月八日付報告書、西里晃の当裁判所における証言によると、死体遺棄現場から南西約一・五キロメートルに位置する京都大学理学部付属阿武山地震観測所における観測結果では、一七日は午前中晴れ、午後くもり、夜間雨となっているが、その雨は十分単位で測量できる貯水型自動雨量計には表われない程度のものであり、ただ一七日午前一〇時から翌一八日午前一〇時までの間の一日分の集計として三・七ミリメートルの降雨量を記録している。同観測所での気象は、その位置関係からみて、原判決の引用する二個所の観測場所での気象よりも本件死体遺棄現場の気象に近いと考えられるところ、右の程度の降雨量では数時間のパラパラ雨程度のものにあたるのであって、さ程の降雨はなかったとみるのが合理的である。また、右阿武山地震観測所の観測資料などによると、前々日の一〇月一五日は、晴れ、雨量零、蒸発量二・一ミリ、一六日は、晴れ、雨量零、蒸発量二・二ミリ、一七日午前一〇時から翌一八日午前一〇時までには、前記のとおり雨量三・七ミリ、一七日の蒸発量一・五ミリとなっており、前々日から乾燥していたのであるから、当夜いくらかの雨があっても、車が砂ぼこりをあげることは十分に考えられるところであって、原判示のように明らかな矛盾というにはあたらない。

(3) さらに、大阪管区気象台長の回答書によると、被告人の自白する殺害現場に近い大阪市東区法円坂六の二五の大阪管区気象台の観測結果では、一〇月一七日の午後五時二分から三三分までと五五分から五六分まで降雨があったがその量は測定できない程度のものであり、午後六時五分からは連続して降っているが、午後九時までの降雨量は一・五ミリにすぎないのであり、被告人の自白において、殺害時刻の午後九時ころの状況として、小雨で車の窓がよごれた旨を供述しているのは、むしろ右事実に照応するものといってよい。

四  自白内容の変遷について

(1) 原判決は、「被告人の自白調書全体を検討してみて、まず第一に受ける印象は、自白が転々と変遷していることで、特にそれは司法警察員に対する供述調書において著しい。もちろん、犯行の概要については一貫しているのであるが、その周辺にある細部の事柄については、変更したり、補充したりして供述内容が変転を重ねている」と判示し、変遷している事項を例示したうえ、「このような供述の変遷は、むろん、被告人が取調の回数を経るに従い次第に正確な記憶を喚起してその都度訂正した結果によるものと考えられなくはないが、その反面、被告人がいったん供述した事柄について後に裏付け捜査がなされた結果、事実と食い違うことが判明すると、取調官がそのことを告げて追及し、それが結果的には誘導となって被告人が供述を変える、という推移をたどったとも考えられ、それが自白の信用性に疑いをさしはさむ一因ともなっている」と判示している。

(2) 供述の変遷が自白の信用性にいかなる影響をもつかは、変遷している事項の性質、変遷の理由、供述時と体験時との間隔などの諸事情との相関関係で判断すべきものである。そこで、原判決が例示するものの中から比較的重要と思われる犯行日と動機の供述を取り上げ、このような観点から考察をしておくこととする。まず、犯行についてであるが、原判決は、最初一〇月一六日と自供していたのに、後に一〇月一七日に変更されたことをあげて、信用性に疑いを抱く理由のひとつとしている。しかしながら、犯行より一年以上を経過した場合の犯行日の記憶が不確実なものであることは、むしろ当然のことに属するのであり、ことに一〇月一三日の最初の自白調書は任意出頭を求められて自白した直後のものであることを考慮に入れれば、一日のくい違いは異とするに値いしない。加えて、一七日に変更されるに至ったのは、被告人の公判廷での供述によれば、喫茶店「味香」に立ち寄ったのが一六日であることを捜査官に指摘されたからであるというのであり、内藤矯一の証言によれば、取調べの過程で被告人が弟の警察官試験の受験票を持って行ったことを思い出し、その夜のことであったことから一七日になったというのであるから、いずれにしても犯行日の変更については合理的な根拠があったというべきである。

次に、犯行の動機についてであるが、原判決によると、「一二月一七日付員面調書では、母から金の返済を強く催促されたことだけが挙げられているのに、同月二〇日付員面調書ではその点がむしろ後退して、ともかく自由になる金銭が欲しかったという動機が前面に押し出され、それ以後この両者が挙げられるようになっている」というのであるが、一〇月一七日の調書においても、母から返金を要求されたことを直接の犯行の動機として述べているものの、その背景として、小遣いに困っていたこと、妻への気兼ねもあって自分の自由にできる金が欲しいと思っていたことなどを縷々供述し、「たまたま加治さんから出た金利かせぎの金をまき上げる事が出来ないか、そしたら義母に金を返せるし、妻に心配かけずに済み収入がない埋めあわせが出来る」としめくくっているのであって、自白の信用性に影響を及ぼすほどの変遷はないのである。なお、原判決は、被告人が当時金銭に窮していたかどうかこれを確定すべき証拠はないと判示しているけれども、司法警察員作成の昭和四七年一〇月九日付現行犯人逮捕手続書に徴すると、被告人は、同日午前一時五五分、駐車中の車からタイヤを窃取して現行犯として逮捕されていることが認められるほか、司法警察員の昭和四七年一一月二七日付報告書に照らすと、被告人は、昭和四六年一二月一一日、自分の自動車サニー・クーペを下取りとしてブルーバードを購入し、初回三万四、八〇〇円、二回目から毎月三万四、一〇〇円の二四回割賦で合計八一万九、一〇〇円を支払うこととなっていたが、五回目までを支払っただけで残りは支払わず、業者が再三支払いを求めても支払いをせず、結局業者に車を回収されていることが認められるのであって、すくなくとも被告人の自由になる金が乏しかったことは十分に推認が可能である。

第五控訴趣意に対する結論的判断

一  原判決の判断過程について

以上の検討から明らかなとおり、原判決の判断は、被害者と最後に居合わせた人物、死体の頸部のひも、犯行時の天候の諸点について、認定を誤っており、被告人が被害者から預かった六〇万円、赤色燈、スコップの入手経緯、一〇月一六日の被告人の行動、一〇月一七日の被害者の行動、自白内容の変遷の諸点について、証拠の評価を誤っており、これらが被告人の自白の信用性ひいては被告人に対する犯罪の成否についての原判決の全体的判断に影響を及ぼしている。また、原判決は、判文からうかがわれる限りでは、情況証拠ないしは自白の裏付け証拠を検討するにあたり、それぞれの証拠のもつ価値をそれ相応に評価するという態度に出ず、何がしかの反対事実の存在の可能性がある場合には、そのことを根拠として、その証拠価値を全面的に否定し去るという態度をとっているようである。例えば、原判決は、被告人が加治から預かった六〇万円の処分について判断を下すにあたり、この点の被告人の態度が被告人に不利益な情況証拠であることを認めながらも、「この一事をもって被告人が本件犯行に及んだと推論することは許されない」として、これが自白の信用性等に対していかなる価値を有するかについては顧慮せず、結局その証拠価値を無視しているかにみえる。また、例えば、スコップの入手経緯についての判断においては、それが証拠として重要性をもつことに着目しつつも、「この点をもって自白の信用性ありとする決め手(真犯人にしか分からない事実の暴露)になると断定することはできない」と判示して、結局はその価値を否定し去っているかのようである。このような判断方法は、死体のひもについての判断などの他の部分においても、ほとんど常に用いられているようである。しかしながら、このような判断方法の妥当でないことは、多言を要せずして明らかであろう。

さらに、右の判断方法と関連し、原判決は、全証拠を総合して全体的な判断を下すことをせずに、これを個々別々に切り離して判断し、ために全体的な証拠の判断に誤りを生じる結果となっていることを指摘しなければならない。すなわち、原判決にいう「きめ手」となる証拠あるいは「断定」できる証拠は、それのみで被告人を真犯人と断定し又は自白の信用性に対する一切の疑念を払拭するような証拠という意味であろうが、そのような証拠は、目撃者、指紋などの特殊なものに限られるのであるから、そのような性質の証拠でないからという理由で情況証拠又は信用性担保の証拠としての価値を否定し去るとすれば、極めて不当な結果となるといわなければならない。

二  結論的判断について

前記第二の説示から明らかなように、被告人の自白調書を除外した客観的証拠によると、次のような事実が認められる。すなわち、被告人は、被害者である加治から、被告人の義理の叔父陶器一雄に金を預けて利息をかせぎたいので口をきいてくれるように頼まれ、一〇月一五日と一六日の両日加治とともに自分の乗用車サニー・クーペで右陶器一雄を訪ねたが会えず、一六日の帰りの車内で加治から、「これ預かっといてくれ。一雄さんに渡して、あとはよろしく頼む」といわれて封筒入りの六〇万円を預かった後、午後九時ころ喫茶店「味香」に二人で立ち寄り、加治に対し、「今日はだめだったけれど、明日は何とかなるだろう」と話していた。加治は、その翌日の一七日から姿を消した。被告人は、翌々日の一八日に自分の名義でそのうちの四〇万円を預金し、一一月二六日までに全額を引き出して自分の所持金のように処分し、他の二〇万円もそのころ費消した。そして、その後何度も陶器一雄に会いながら、加治から金を預かっていることを話しさえしなかった。被告人は、八月四日に車体の塗りかえなどをすませていたのに、一二月一一日右サニー・クーペを下取りに出して別の車と買い替えた。被告人には、人跡稀な本件死体遺棄現場に土地感があった。一方、加治の死体に巻きつけられていたひも(証一号)は、被告人の妻がかつて勤務していた喫茶店「御門」においてウェイトレス用制服についていたニットのベルトと同一種類のものであり、四〇〇本生産されたものの一本であった。被告人の妻はこのベルトをもらい、被告人宅の物干竿を吊すのに用いたこともあった。ところで、死体に巻きつけられていたひもは、右ベルトと布製のひもと結びつけられ、二つの輪の形になっており、長さは約八二センチメートルであって、右の物干竿を吊す場合の高さとほぼ合致しており、しかも、布製の輪の部分にすり切れて出来たような破損があり、物干竿を吊すのに用いたと考えれば納得がいく形状のものである。以上のような事実を総合するときは、それだけをもってしても、本事件の犯人が被告人であるとの濃厚な疑いを生じさせるに足りるものであり、いわんや、これらの客観的事実と完全に符合する被告人の自白の信用性を担保するには十分のものといわなければならない。原判決は、この点において、すでに判断を誤っている。

次に、前記第三において説示したとおり、被告人が本件死体遺棄に用いたと自供している赤色燈に付着した土の状況及び同じく右犯行に用いたと自供しているスコップの入手経緯については、いずれも自白に合致する客観的な裏付けがある。そればかりでなく、原判決も認めるとおり、自白の内容は、具体的かつ詳細であって、実際に体験した者でなければ供述しがたいような迫真性に満ちており、また、自白の経過にも不自然さはなく、身に覚えのないことを自白したと考えるには余りにも不可解である。

さらに、原判決が自白の信用性を損うとして指摘する諸点は、いずれも自白の内容と矛盾するものではなく、かえって、これと合致し、その真実性を増強するものも存在している。

なお、被告人は、公判廷において、本件殺人の犯行日とされている一〇月一七日の夜には妻と一緒に自宅でテレビを見て寝た旨アリバイを主張し、妻の吉井行子も、公判廷において、これに照応する証言をしているけれども、それらの根拠は当夜のテレビの番組名やニュース報道を記憶しているというものであって、必ずしも当夜の体験に基づかなくても述べうるところであるうえ、上述のとおり、同日前の被告人の行動についての公判廷における供述、特に被害者から現金六〇万円を預かり、喫茶店「味香」で被害者と最後に会った日についての供述が誤りである以上、右各供述は措信することができない。

したがって、これらを総合して判断するときは、被告人の捜査官に対する自白調書の内容は十分に信用に値するものとすべきであり、これと客観的情況証拠とを併せ考えるときは、被告人が本件各犯行を犯したことの証明は十分であるといわなければならない。

以上要するに、原判決には検察官所論のような事実誤認があり、とうてい破棄を免れない。論旨は理由がある。

(結論)

刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書によりさらに次のとおり判決することとする。

一  罪となるべき事実

被告人は、以前、義理の叔父陶器一雄が経営するすし店「利休」で調理師仲間として働いていたことから、加治勝美(昭和二〇年九月二三日生)と知り合い、同人の退職後三年位は交際もなかったが、昭和四五年秋ころ偶然再会して交際を続けるようになり、ときどき大阪府守口市橋波西之町一丁目二二番地福和荘にある同人の住居や同市西郷通一丁目一六番地橋波市場内にある同人経営のすし店「うお勝」に出入りしているうち、昭和四六年一〇月ころ、加治から、すし店経営のかたわら金融業をしている右陶器に金を預けて利息をかせぎたいので口をきいてくれるようにと頼まれ、同月一五日と一六日の両日加治とともに自分の乗用車(日産サニー・クーペ)で陶器を訪ねたが会えず、一六日の帰りの車内で、陶器に渡して欲しいと封筒入りの現金六〇万円を加治から受取ったものであるが、

第一  当時、実母陶器千代に返済すべき借金が七万円ほどあり、また、自分の自由になる金が手許になかったところから、いっそ右加治を殺してしまえば六〇万円が自分の自由になると考えて加治の殺害を決意し、同月一七日の午後八時ころ、前記陶器は預かる金の見返りとなる手形を直接加治に渡したいので来てほしいといっていると言葉巧みに加治を誘い出して自分の自動車の助手席に同乗させ、同日午後九時ころ、大阪市旭区新森一丁目七番六号先同市道高速大阪森小路線未供用道路上に至るや、同車を停車させて、やにわに加治の頸部を背後から両腕で締めつけ、よって間もなく同所において、加治を窒息死させ、もって同人を殺害し、

第二  右犯行を隠ぺいするため、同日午後九時過ぎころ、右加治の死体を右自動車に乗せたまま、右同所から大阪府高槻市奈佐原三七五番地所在の雑木林に至り、車のダッシュボード内に用意してきたひも(当裁判所昭和五二年押第一三八号の一)を取り出して死体の首に巻きつけ、強く締めて結んだうえ、同日午後一一時ころ、同所にスコップで穴を掘り、その中に加治の死体を埋没し、もって死体を遺棄し

たものである。

二  証拠の標目《省略》

三  法令の適用

被告人の判示所為のうち殺人の点は刑法一九九条に、死体遺棄の点は同法一九〇条に該当するので、殺人罪については所定刑中有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪なので、同法四七条本文、一〇条により重い殺人罪の刑に同法四七条但書の制限内で併合加重した刑期の範囲内で被告人を懲役一二年に処し、同法二一条により原審の未決勾留日数中三〇〇日を右本刑に算入し、刑事訴訟法一八一条一項本文により原審及び当審の訴訟費用を全部被告人に負担させることとする。

四  量刑の事情

本件被害者の加治は、妻を福岡県の実家に預け、営業を拡張するため営々として働いていた者であって、本件六〇万円もその一助にと「自分の全財産や」といって被告人に渡したのにかかわらず、被告人は、これを奇貨とし、被害者を殺害して右六〇万円を自己のものにしようと企て、言葉巧みに加治を誘い出したうえ、これを絞め殺し、山中に死体を埋めて、何くわぬ顔で右金員を費消していたのであって、その犯行はまことに残虐非道というべきである。信頼した被告人に裏切られ、二六歳の若さで殺害された被害者の無念さは想像するにあまりがある。家族、親族に与えた精神的打撃の大であったことはもとより、被害者の妻が生活保護に頼ることを余儀なくされるなど経済的影響も大なるものがあった。被告人は、逮捕後、その非を悔い、捜査官に対し詳細な自白をしているものの、原審の公判では否認に転じ、被害者側に対する慰謝の途をまったく講じていない。これら諸般の事情を考慮するときは、被告人に対して主文のとおりの刑をもって臨むのが相当である。

(裁判長裁判官 瓦谷末雄 裁判官 山田敬二郎 香城敏麿)

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